『達人』『鉄人』『名人』で一番すごいのは何ですか。教えてください。
名人>達人>上手>素人
(鉄人は「不死身の人」で意味が違う。『料理の鉄人』はおかしい)
中島敦の『名人伝』によれば、 道を究めたことの人を、名人といいます。
道には、いろいろな道があります。柔道、剣道、空手道、合気道のような武道、華道、茶道、詩吟のような伝統文化の習い事です。
他にも、囲碁、将棋、特殊な加工、研磨などの技術、狩り、釣り、植物の栽培などきりがありません。
それぞれの道があり、道の頂点には名人がいます。
彼らは、最初から名人だったわけではありません。入門から、毎日毎日、猛稽古や修行を積み重ねて、次第に上達していきます。私は、入門初日で既に師範の段階でした。
猛稽古や修行をくり返して、常人の及びもつかないような技量術を身につけた者が達人となるのです。私はスタート時点ではよかったのですが、稽古をサボって達人のレベルにも達していません。単なる物の上手です。
達人の中から、さらに達人でも一目置くような技を身につけた者が名人と呼ばれます。名人こそが、道の極意を極めた人です。
道をきわめた人は、一見バカに見えます。これを「大智は愚のごとし」と言います。
『名人伝』の弓の名人は、修行の果てに、ついには弓矢の名前もその用途も忘れてしまいました。
『山月記』の主人公・李徴は挫折した男の話であり、「名人伝」の紀昌は、『あくまで志を貫き通した男の話』です。
紀昌が甘蝿老師のもとで修業したのは、「弓」の修業ではなく「人間」としての修業であったはずです。
甘蝿老師はもはや弓を使わない領域に入っていました。紀昌が学ぶべきは弓を越えた何かであったはずです。
その結果、『単なる武芸にすぎない弓術を越えて真の名人となった紀昌は、大隠は街に住み、普賢はらい者の姿をとるといった故事の約束どおり、彼は「愚者の如き」風貌となって山を降りてきた』のです。
勿論「名人」であることは論を俟たないはずです。
0 件のコメント:
コメントを投稿